藩校 『致道館』

2007.06.26 Tue

17藩の旧藩主末裔たち集合 “庄内藩”で 藩校サミット のニュース(読売)

末裔たちに興味はないが
庄内藩 藩校 『 致道館 』 が気になる

1805年 庄内藩主で酒井家九代目 酒井忠徳(ただあり)により創設
徂徠学を採用し 自主性尊重 質実剛健の教育文化を育む

『 致道館 』 は 論語の 「 君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス 」 から命名された

徂徠学とは 『儒学者 荻生徂徠』の教えであり
生徒一人ひとりの生まれつき持っている能力(天性)を大事にし その優れたところを十分に伸ばし 自分から進んで積極的にに学び 考え 理解し それを実際に生かす教育を行なったという

『致道館』には 武術けいこ場 矢場がそれぞれ2つ 馬場1つが併設されており 剣術・柔術・弓術・槍術・馬術の修練を行なった

また 心身鍛錬の為 野山に出かけ「鳥さし(竿の先のトリモチで鳥を捕まえる)」や「磯釣り」をしたり
「遠足」と称し ヤリ・鉄砲を担ぎ 握り飯を持って 夕方出発し24時間歩き通す なども行ったという

句読所(小学校)の遊びで 『 王取り 』というのがあったというのだが これが面白い
今だとヒステリックなバカ親どもの即餌食になり 考えられない遊びだが

2陣地に別れ むしろに巻いて隠した相手の「王」を 速く奪った方が勝ち というもので 取り囲んで「王」を守る子供たちと 攻撃してくる子供たちがぶつかり合う
ルールは 「目に指を入れない」 「噛み付かない」 のみ 殴る蹴るは当たり前 というもの
終わった姿は もう ボロボロ 鼻血 青アザ キズだらけ 着物はズタズタ チョットした骨折ぐらいはあったに違いない
想像すると笑ってしまう

『 致道館 』 の設立には 初代の祭酒(校長)兼 司業(副校長)を務めた 白井矢太夫 という
人物が 深く関わる

この 白井矢太夫(1753〜1812) が実に興味深い

当時 庄内藩は藩財政が窮乏し 農村も荒廃していた 武士たちも奢侈に走り堕落し 私腹を肥やす役人も横行し始めていた

これに頭を悩ませていた藩主酒井忠徳は 郡代であり思慮深く優れた学者であった 白井矢太夫 に意見を請う

『 これは穏やかな世が長く続いて 人々の心が柔弱になり 廉恥の心が薄れたからで 急には直らないと思います 回り道のように思われるかもしれませんが 学校を建て 教育をするしかありません それによって さきざき 人々が恥を知るようになれば 風紀の乱れは自ずと改まります 』

忠徳 はこの考えを迷わず取り入れたのである

幕府が「朱子学」を正学としていた時期にあって 『 徂徠学 』 を採用したのも 徂徠学を学び継いできた 白井矢太夫らに対する信頼がいかに厚かったかがうかがえるというもの

白井矢太夫らが中心となり 農政改革し藩財政を立て直し ついに庄内藩は神田大黒の異名で呼ばれるほどになったという 藩主の信頼ますます厚く中老にまで昇進している

『 致道館 』 を卒業する者は その能力に応じて 藩の役が与えられ やがては生徒たちの間に 学問を大切にし 行ないを慎み 積極的に行動する気風が生まれ 武士たちの振る舞いも改まった という


どーよ この 白井矢太夫 の 『 致道館 』 の精神と手法は

借金まみれの国家財政 堕落しきった政治家 官僚 役人どもが横行する現代に

回り道と思うかもしれないが 学校を創り 教育を一からはじめ
天性を生かした有能な指導者を育てるというのは 参考になりはしないか

そうして さきざき 人々が恥を知るようになるなら 風紀の乱れが自ずと改まるなら
今すぐに始めるべきだろー

既存する学校でダメなら 新しい 『 致道館 』 を創っちまおー

『 武士道精神 蘇える 』  ってもんよ



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  1. 2007/06/26(火) 00:26:35|
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